優勝に懸ける想い -vol.19-

白井 美帆 (#45 MD)

淡麗な容姿とは裏腹に、突拍子のない行動をたまにする、慶応が誇る最強ドローワー、みねからバトンを受け取りました、#45 MD白井美帆(みほ)です。

 

みねは、目がきらきらしていて、髪の毛が栗色で少しくるっとしていて、すごい可愛いのですが、

喋るとちょっと変で、ご飯が残ると、いちばんに「じゃんけんしよ」って言うよく食べる人です。

だけど、誰よりもガッツがあって、努力家で、内に秘めるエネルギーがすごい人です。

 

怪我をしていた期間は、すごく辛かったと思うのに、絶対に毎練習来て、ずっと壁あてや持ち替えをしていた姿が思い出されます。

「フィールドで練習している自分はもっと頑張らないと」と強く思わせてくれる、背中で語って、チームを引き締めてくれた人です。

 

そして、今年は、慶応のボールポゼッション時間を長くして、チームを引っ張ってくれた、我らがドローワーです。

特に、最後の数ヶ月間は、みねのラクロスと、ドローと真っ向から向き合う姿に、何度も感銘を受けました。みねの作ってくれたポゼッションを活かせなくてごめん、

中央戦では、誰よりも走り続けて、足が攣って、痛みに悶えながら、

数点ビハインドの試合が行われているフィールドを、見つめるみねの姿に本当に申し訳なく、心が苦しくなりました、

 

みねとの思い出を振り返っていたら、いきなり重い話になってしまいましたが、伝えたいこととしては、

みねが、チームのみんなから慕われ、尊敬され、愛される、

仲間思いで、誰よりもガッツのある努力家で、優しくて、ちょっと変で面白い、とっても素敵な人だってことです!

 

これからもずっとよろしくね^^

 

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私は、「優勝に懸ける想い」と称したこの引退ブログで、

「ラクロス部と留学は両立できます」とは書けません。

 

 

私は、大学からラクロスを初めて、

2年の夏から大学の派遣交換留学プログラムを通じてアメリカの大学に留学して、

帰国後も、プレイヤーとしてのキャリアを続けました。

 

 

あまり類を見ない、体育会での過ごし方だと思います。

 

他の多くの体育会で留学が禁止されているように、体育会に所属しながらの留学は、「逃げ」と見られることは否めません。

実際、留学を決めたときの私の心中には、「逃げ」がありました。

 

 

だからこそ、

ラクロス部と留学を、「どっちもただやった」ではなくて、「両方で結果を残す」こと、

この両立が可能と証明することは、留学に行って以来、自分のラクロス部での目標の一つでした。

 

逃げでいった自分の留学という選択は間違っていなかったと、自分にも周りにも証明するために。

 

少しの努力は繋がって、4年目にして、やっとの思いで、初めて早慶戦、リーグ戦に出ることができました。

 

ですが、ファイナル4にもいけなかった今、私はこの両立をできたとは言えません。

主力メンバーを支えるべき、何ならチームを引っ張るべき立ち位置にいた私にもう少し実力があったら、私がもう少し自分と向き合っていたら、明治戦、中央戦に、勝てていただろうと思うからです。

 

 

だけど、両方の機会に全力で挑み、爪痕を残そうと必死にもがいた4年間は本当に楽しく、沢山の素敵な人との出会いがあり、充実していて、多くのものを得られた、かけがえのない素晴らしい時間でした。

 

 

このブログでは、ラクロス部で日本一と交換留学の両立はできなかった私のラクロス人生を僭越ながら振り返ります。

その上で、以下のことを伝えられたらと思います。

 

『日本一は甘い気持ちで獲れるものじゃないからこそ、目指す価値のあるもの』

『Lacrosse makes REAL and NEW friends』

 

 

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【アメリカ逃亡計画の予定が、ラクロス・勉強修行留学】

 

両親がラクロッサー、ユニがカッコイイという漠然とした憧れで入部した1年生は、辛かった思い出しかない。

コロナで授業も行けない中、部活動は暑く、仕事が多く、部活後に同期と食事をすることも禁止され、同期も仕事仲間止まり。ラクロスという新しいスポーツも、接触やスピードが求められて怖く、自信のあった体力も、周りの高校部活のエース集団のような同期には勝ち目がなくて、同期の中で埋もれていっていくのを痛感する毎日。

 

気を病むくらい辛かったので、1年生の秋口、交換留学に応募した。いわば「逃亡計画」。

今残っている同期の中で、1番退部に近かった。留学に行くことで、部活と向き合うことから一回逃げようと考えた。

 

ヨーロッパへの留学を検討する私に、ラクロス愛がとても強い父は、ビジネス、英語などの理由と共に「アメリカに留学して、ラクロスチームに入れてもらったら?帰ってきてラクロスやりたくなるかもしれないし。」とさりげなく言ってきた。

その時は、ラクロスをやりたくなる訳ないと思っていたが、結局、アメリカの政治分野が強い大学で、かつ女子ラクロス部がNCAA Division1に所属している大学に応募した。

父にはいつも色々見通されてる。けど、これが結果的には、大正解。いつもありがとうございます。

 

逃亡計画準備を進めながらも、練習には休まず参加し、毎日ほんの少しは成長することを続けた。そして、父の言った通り、2年生の春ごろ、なんと部活が楽しくなってきた。どんどんと部活は楽しくなっていき、2年生の渡米直前には、部活が楽しくて楽しくて仕方なかった。ダッチが抜ける瞬間、シュートが決まる瞬間、グラボが取れる瞬間、、同期だけの育成チームからリザにも上げてもらい、上手な先輩方に怒られながらも毎日、新しいプレーができるようになるのが楽しかった。Vリーグに出場し、準リーグメンバーにも選んでもらい、チームの中で上手くなっている実感もあった。

 

そんな絶頂の真っ只中、渡航の日が来た。自分でした決断なのに、とても悔しかった。このまま日本にいたら、いい選手になれるんじゃないか。もっと活躍できるんじゃないかと思って、過去の自分の決断が間違っていたのではないかと思った。自分でした決断だから、何言ってるんだという感じだけど、ラクロスがこんなに楽しくなるとは1年前には想像もしていなかった。

 

 

だから、留学先では、体育会のラクロス部になんとしてでも入れてもらおう、自分でできる努力は絶対にしようと思って渡米した。留学先で、体育会のラクロス部に入れてもらえなかったら、慶応ラクロス部での自分の選手生命は絶たれると思った。ただでさえ、1年間しかラクロスをしていない下手くそな初心者の私が、4年間でチームを代表するところまで上り詰めるには、なんとしてでも留学期間ががブランクになってはならなかった。

 

でも、聞いていた通りだったが、NCAA Division1のラクロスチームは簡単には入れてもらえなかった。NCAAのレギュレーションは厳しく、中学校の成績から、英語のスコアなどさまざまな書類を提出し、審査の結果をまった。クラブラクロスチームの練習にも行ったが、サークルのような雰囲気で、自分がやりたい「本気のラクロス」はそこにはなかった。アメリカについてから、D1チームに入れてもらえるまでの1ヶ月間は、留学ならではの高揚感はなく、日本のみんなに置いていかれる、ラクロス部に戻れないという焦りと不安が多かった。慣れないキャンパスで、1人で、壁あてやショーバン、5km走をした。

 

 

 

そして、非常に幸運なことに、やっとNCAA Division1のラクロスチームに、選手兼学生スタッフとして所属させてもらえるようになった。

 

練習に見に行かせてもらった最初の日、チームのみんなは本当に暖かく歓迎してくれた、

 

ように見えた。遠征の時のように。

 

私は、チームに長い間溶け込めなかった。

それもそのはず、NCAA Division1のラクロスチームには、皆ラクロスを10年くらいやってきて、高校でスカウトを受けて入部する。

だから、そこには、自分たちは「選ばれし者たち」という雰囲気が常に漂っていた。

実際、チームメイトは、ラクロスのレベルが、ラクロス歴1年の私とは歴然と違うのはもちろん、

成績も皆優秀(7割以上のチームメイトがGPA3.5以上)、練習後の筋トレでは、数10キロの重い重りをなんなく上げ、

パーティーになると素敵なドレスを身に纏って、みんな美人。

 

一方の私は、ただの日本からの留学生。

ラクロス歴は1年と4ヶ月で、アメリカ人の強いパスもろくに取れない。英語のジョークも分からなければ、授業も分からない。

ジムでは、重りのないバーだけさえもあげられないし、スタイルも顔も良くなく目立たなし、そもそもアジア人は私だけ。

このチームのチームメイトには、ラクロスではもちろん、体力、筋力、学力、英語力、女子力、一つも勝てることがなかった。

だから、「お客さん」ではなく、「チームメイト」になることが、難しかった。

 

だけど、そんなチームメイトのラクロスは、やはりD1というだけあって、

スピードが速くて、コンタクトが強くて、スティックワークが高度で、見たことない連携プレーがあって、

そんな本場のかっこいいラクロスをみてるだけで、感動で心が震える想いがした。

 

こんなに強くてかっこいいラクロスを日本に持ち帰って、慶応でみんなとやりたい、自分がやりたい。

だから、なんとしてでも、頑張って吸収しようと思った。

慶応のチームに帰るためには、ここで踏ん張るしかないんだという焦りもあった。

慶応の選手が、日本人が、へなちょこで大したことない奴と思われたくなかった。

 

 

そこからは、毎日必死だった。

 

朝、8時から12時まで、3つくらいの授業に出席して、必死に手を挙げて発言して、急いでランチを食べて、

そのままチームの練習に行って、強いパスを落としてちょっと睨まれて、涙目になりそうになりながら、またメニューの列に並んで、

チームのウェイトトレーニングで、負けてられなくて重りをだいぶ付けて、ヘロヘロになって、

でも、練習でボール何回も落としちゃったから、こっそり部室の外の壁で1人で残って壁当てをして、シャワーを浴びて、

そこからカフェテリアに行って、美味しくない夜ご飯を食べて、

図書館に行って、22時くらいまで授業の予習、復習、課題の膨大な英語の資料を読んで、寮に戻って寝る。

 

 

こんな感じで、私の留学生活は修行だったから、

「留学楽しかった〜?」って聞かれた時は、「う、うん。」となってしまう。

 

 

でも、真の意味で、世界を牽引する国アメリカの、NCAA Division 1ラクロッサーから、刺激を受けて、成長できたと思う。

ラクロスも勉強も、ハイレベルでやり抜く。女子力は高く、遊ぶときは遊ぶ。仲間想いで、でも周りに流されず、自分のパッションを追う。

 

「文武両道」「才色兼備」の彼女たちは、帰国後の大学生活でも、私のこれからの人生でも、ずっとロールモデルであり続ける。

 

そして、最後の数ヶ月間は、チームの一員と認めてもらえたように思う。今もテキストのやり取りをし、近況報告をする仲でいられている。

 

アメリカに留学に行って、NCAA D1のラクロス部、特にWilliam & Maryのチームに入れてもらえたこの経験は、奇跡で、かけがえのない経験だった。

 

 

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【ラストイヤーにして、初めてのトップチーム、早慶戦、リーグ戦】

 

 

帰国して、ラクロス部のリザに戻った。

3年の夏・秋は、アメリカで1年間「NCAA D1チームにいた選手」ではなくて、ただ、「ブランクがあった選手」にとどまった。体力作りに時間がかかってしまった。4年生の先輩は上手で、同期も上手くなってて、上手な下級生もメキメキ上がってきて、、ようやくチームに帰化した時には、もうシーズンは終わりかけていた。

 

準リーグの大阪で、凄く上手な4年生の先輩が、バーシではなく、リザでプレーして引退されていった姿を見て、自分もリザで終わってしまうんだろうか、と思った。

 

でも、どうしてもバーシに行きたかった。

留学とラクロス部は、どっちもただやることはできる、けど、ただやるだけでは、両立って言えないから。

留学先のチームメイトやコーチと連絡を取るときに、あれだけお世話になったのに、自分は慶応を代表する選手になれていない、サブチームにいることにすごく情けなくなった。また、1番期待してくれている両親に、トップチームでプレーしている姿を見せたかった。

 

だからどうしてもバーシに上がりたかった。

4年生になって2,3回目のチーム分けまでに上がれなかったらもう無理だと先輩も見てわかっていた。

3年の終わり、自分がラクロスから向き合うことから逃げないよう、自分で自分の首を締めるために、授業を36単位取りながら、就活をやりながら、リザ幹もやると決めた。

 

23チームキックオフからは、辛かった。試合では、思うように点を決められない。リザで明らかに活躍しないとバーシには上がれないのに、全然上手くいかなかった。焦りの気持ちしかなかった。

早慶戦1ヶ月と少し前のチーム分けで上がれなかった時には、大泣きした。もう、自分のラクロス人生は、リザで終わるんだと思った。

 

でも、上がれた。上がれてから数ヶ月間は、全てが上手くいって本当に楽しかった。

 

 

 

だが、リーグ戦が進むにつれ、どんどんと上手くいかなくなっていった。日本一が描けていなかった。

 

やまなもブログで書いていたけど、バーシでプレーすることが目的になってしまっていた。

去年の先輩たちはすごく強くて、異世界の人たちみたいになっていて、いざ自分がそこの舞台に立てた時に、どうしたらいいのか考えてこなかったからわからなかった。

リーグ戦という試合の重さもわからなかった。

勝つことが当たり前になっているラクロス部で、自分はどうしたらいいのか。

ラクロス部にかけてきた想いも、時間も日本一をとった先輩たちとはかけ離れていて。

 

 

自分の最後の5ヶ月は、ふわっとしてしまった。

バーシに上がった直後はたまたま上手く行ったが、DFもやるMDから、ATMDというポジションになってからは、上手く行かなかった。

 

自分の強みは、ただ強いダッチをきって、ゴールまでいけるというところだけで、

ダブルをかけてくるDF、カバーが早いDFがいる上のレベルの相手になってくると、この強みは効かなくなり、

もはや突っ込んでダウンボール、またはゴーリー直キャになる、というマイナスをもたらすプレーとなってしまった。

 

ラクロスインテリジェンス、視野の広さ、展開力に欠けていた。どんどんと自分のプレーが通用しなくなっていって、自信もなくなってしまった。

 

 

明治戦で引き分けてしまったあと、最後のみんなが踏ん張っている状況において、私はアメリカ遠征の手配を言い訳にして、自分と向き合えなかった。

1チーム分の、航空券、保険、ホテルの手配、アメリカのチームのコーチの方とのやりとりに奔走してしまった。

 

「遠征が終わったら、自分のプレーに全振りできる」

「今は、みんながラクロスに集中して、直近のリーグ戦に勝てるように、出来るだけ迷惑をかけないようにしよう、自分が企画してるものだから」

 

なんてことを思っていたら、

中央戦では、みんなが戦う姿をベンチから見守ることしかできず、

もっとも、遠征の目的であった、FINALや全国大会は無くなってしまった。

 

 

本当に本末転倒で、情けなくて、自分ってやっぱり弱い人間だなと、意気消沈した。

ファイナル4にも行けなくて、大事な試合で戦力にもなれなかった自分が、「ラクロスで国際交流」とか言ってることが馬鹿馬鹿しくて、恥ずかしくて、情けなかった。

 

自分のような甘い考えでは、日本一は取れないんだと、

日本一の凄さ、それを獲るための覚悟のレベルを痛感した。

 

 

でも、ラクロスライフは、もう1週間続いた。

アメリカで、

今度はみんなと。

 

 

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【私にとってのアメリカ遠征】

 

 

私にとっては、大学4年間の集大成というような、想いが積もる遠征だった。

最後の年に、たくさんの同期を含む、大切なチームメイトと、アメリカのD1チームと試合ができたことは、

その後の日本一に繋げるという元来の目的は無くなってしまっていたものの、自分にとって本当に嬉しかった。

 

 

コロナを挟んで、4年ぶりに実現できたことはもちろん、

 

1人ぼっちで戦った、大学のフィールド、土地、都市に、チームのみんなと来れたこと

 

YouTubeでいつもビデオ見する、本場のラクロスの凄さを、みんなと共有して、

そんな相手に、みんなと挑めて、通用するところも見れたこと

 

そして、アメリカのチームメイトたちに、

「日本のラクロスって、こんなにうまいんだよ!」

「私には、こんなに素敵なチームメイトがいるんだよ!」

「私も日本でラクロス頑張ったよ!」

って言えた様な気がしたこと、本当に嬉しかった。

 

 

大学4年間、ラクロスを通じて、出会った素敵な人たちが集結して、

色んな思い出が蘇る、

そんな一生の思い出に残る遠征だった。

 

 

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【まとめ】

 

たしかに、私は、ラクロス部と留学の両方で結果を残せませんでした。

ですが、私は、自分のラクロス部での大学4年間にも、留学という選択にも、後悔はありません。

 

上手く書けませんでしたが、アメリカでも日本でも残った後悔は、

アメリカ遠征が、肯定してくれた、

自分の4年間は、無意味じゃなかったと教えてくれたような気がしました。

 

ラクロスと留学に本気で挑んだ大学生活は、本当に楽しかったです。

 

 

メッセージは、以下になります。

 

『日本一は甘い気持ちで獲れるものじゃないからこそ、目指す価値のあるもの』

 

この組織の中で、「バーシが日本一になる上で活躍する」というゴールを恥ずかしがらずに、早くから明確に持って欲しいです。

「バーシに入る」ことが目的では、日本一はとれないと学びました。

 

 

『Lacrosse makes REAL and NEW friends』

 

ラクロスを通じて、いつでも味方になってくれて、同じ笑いを共有できて、自分の本気の意見や考えを受け止めてくれる同期に出会えました。

なんとなく所属する団体では得られない、本当の友達(REAL friends)に出会えました。同期のみんなありがとう。

 

そして、ラクロスは、たくさんの新しい友達(NEW friends)にも出逢わせて、世界を広げてくれました。

留学先のWilliam & Maryのチームメイトはもちろん、留学先で出会ったラクロス関係の方々、日本で出会ったラクロス関係の方々など、本当に素敵な出会いに溢れていました。ありがとうございます。

 

世界に広がる、ラクロスコミュニティは暖かく、多様で、その絆は強固です。

 

国際交流と日本一は、1人で追ったら両立しないかもしれないけど、

複数人で、チームみんなで追ったら、きっと両立すると思います。

 

コロナ禍を乗り越えた慶応ラクロス部には、また海外とのネットワークを広げ、ラクロスを通じて、世界と繋がって欲しいなと思います。

 

 

 

悩んで、悩んで、今、留学をしている後輩2人、また今後留学に行く後輩たちには、

自分の決断を成功にできるよう、楽しんで、挑戦して欲しいです。

元気に帰ってきてね!留学楽しんでね!本当に応援しています!!

 

 

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【+α】

 

ラクロス部では、同じ(小)中高校出身の同期(ゆき)と後輩(こおり)に支えられました。

 

ゆきは、なぜか大学に入るタイミングで、自宅から徒歩10分のところに引っ越してきて、部活も、私がラクロス部に入ると言ったら、ラクロス部に本当に入部していました。

 

小・中・高を通じて、同じクラスにも何度もなったし、同じクラブ活動にも入っていた時もあったし、親しい友達もすごくかぶっていたけど、

直接的にはすごく仲良いわけではなかったから不思議だけど、

 

いつも、誰よりも努力していて、色々なことを考えていて、怪我も乗り越えて、強い気持ちを持っていて、

気持ちの弱い自分にとって、ゆきの頑張っている姿はいつも刺激的で、負けられない、頑張らないと、と思う瞬間を何度もくれる人でした。

 

行き帰りの車では、チーム状況、就活、今後の将来などなど、

いつもふざけているけど、

すごく分析的で的確な意見を喋り続けてくれて、

大きな学びを与えてくれる人です。

 

14年間、本当にありがとう、

準がんばってね!!授業ちゃんときてね^^

 

 

こおりとは、合計、7年間、同じ団体に所属して、一緒の景色見て、一緒の苦しみを経験しました。

 

高校のテニス部では、1km走ではいつもみんなより1周くらい遅いところを走ってて、夏合宿では、たった一切れのトマトをずっと食べられなくて、泣きながら、顧問の前でトマトをお箸でつついてたあのこおりが、

 

大きな怪我もしていたのに、

誰よりも自主練してビデオ見して、先輩に質問して、アップやトレでも全力を尽くしていて、

持ち前の変さで、チームの雰囲気も明るくしてくれていて、

何よりもすごくラクロスを楽しそうにやっていて、、

 

周りの同期や先輩がこおりを褒めているとき、いつも誇らしかったです。(自分は関係ないけど笑)

 

中央戦の前に、私がラクロス部に入っていたから、ラクロス部への入部を考えたと言ってくれて、すごく嬉しかったです。

そして、中央戦では、大活躍してくれました。

その時は凄く悔しかったけど、誰よりも遅くまで丸子に残ってて、誰よりも努力しているこおりなら、当然の結果です、本当に尊敬しています。

 

そんなこおりなら、来年、何かを絶対成し遂げてくれることを確信しています。

こんな後輩を持てたことが、とても光栄です。(2番目の妹と勝手に思ってます)

ラクロスを楽しんで、頑張ってね!!!

 

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次のブログは、顔見知り歴10年くらいのMD#91とうこです。

 

とうことは、生活圏域、行動範囲、友人関係?も何かとちょっと被ってて、何かと顔見知りでした。

 

高校で同じ塾とテニススクールに通っていたときは、イケイケJKかと思ってましたが、

同じ組織に入ってみたら、ゆるっと優しい雰囲気をまとっているのに、内に強いエネルギーやプライドを持っていて、

でも、誰よりも友達思いで、とてつもなく素直で、負けず嫌いで、面白くて、たまに変で、車に乗る時は、いつも最新のJpopプレイリスト(ミーハーなやつ)をかけてくれます笑

 

プレーでは、誰よりも長い腕で、どこからともなく現れて、グラボをかっさらっていきます。

アメリカ遠征では、ごつい長身アメリカ人相手に、何度も混戦グラボをとっていて、絶対的なMVPになっていました。

そんなとうこと、デベ、リザ、最後はバーシと、長い期間、一緒にラクロスを沢山できて、とっても楽しかったです。

 

チームでは、誰よりもチームの雰囲気を感じ取って、困っている人に寄り添える人です。

ちょっと張り詰めた雰囲気になった学みも、持ち前のゆるさで和らげてくれるだけでなく、

真剣に問題に向き合って、意見する、チームに欠かせない存在です。

 

特に最近は、車の中や夜な夜な深い話を沢山できて、とうこの明るさや、優しさ、素直さを何度も感じました。

とうこは、これまでも、これからも、明るいオーラを纏って、素敵な人たちを惹きつける、素敵な人なんだなと思いました。

エンターテイナー(MBTI診断)とうこのハッピーオーラに、これからも浸らせてね!あとテニスもしようね!

 

次のブログでは、そんなとうこが、きっと、これまでの熱い想いを語ってくれるはずです!!

楽しみにしていてください!

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