慶應義塾大学體育會女子ラクロス部公式ホームページ
考えてる風に見えて、実は考えてない、けどとうこよりはちゃんと考えてる、えりいから回ってきました、4年G#5の大宮優希(ふぃあ)です。
えりいとは、不思議とチームが上がるタイミングがほとんど全て同時期に来ていたこともあって、私のラクロス人生の隣には、いつも必ずえりいがいました。
人として非常に老成していて、私を誰より理解し誡めてもくれる、刎頸の友です。
出逢えて、本当に良かった。
えりいとのエピソードを列挙し始めたらキリがないので、敢えてここで長々と記すことはしませんが…
3年生の終わり頃、確約の無い未来への漠然とした不安にもがき、弱音を吐露しながらも2人して覚悟を決める事ができた日のことは、先々忘れることは無いと思います。
えりいは、自分以外の全員が敵になろうと、自分の正義に悖る行動は絶対にしない人。
これから先も、無二の親友でいてください。
何はともあれ、一昨日の準勝ててよかったーーー🥺
自分が機能しなさすぎた試合でしたが、傍えが死ぬほど頑張ってくれました。
本当に、頼りになりました。
ただただ、ありがとう。
あと1ヶ月、君と、君の相方と、切磋琢磨できるのが嬉し過ぎるぞ😝
自分でも不思議なくらい、これ以上でも以下でもなく、純粋に、ただこれだけでした。
いろんな人に、後で話聞くよと言われたので一応報告までに。笑
一年前の自分が書いたことを読み返していました。
一個上の大好きな先輩たちのことを想いながら、前十字手術入院先の病院から言葉を綴ったことを思い出します。
あの怪我をしてからは、
どんなに調子の悪い日でも、夜寝る前にラクロスのことで悩むことができているだけで嬉しく、
“いやなんだかんだ言っても結局、今日なんとかラクロスできただけでいいや。左膝ありがとう、神様ありがとう”
どんな悩みがあろうと、結局この感謝に行き着き、動けるうちに動いておこうと思い、シューターを無理やりグラウンドに来させシュー練を永遠やるのが、今では一番好きな時間です。
もちろん、3年生の秋から4年の初夏という、本来ならラクロスを一番楽しく思える時間をリハビリに終始したこと自体は、今でも肯定はし難い苦痛でした。
しかし、あの日々でしか培えない逞しさを自分に蓄え、ある意味でラストイヤーへの「覚悟」を決める契機となった日々であったことは、紛れもない事実なんですね😉
ーーー
長々と前説を書いてしまいましたが…
私がこの4年間、ひと時たりとも忘れなかった、ある言葉があります。
慶應のゴーリーズは最強です。
その中でも、慶應を背負って立てる一枚目は、ただ1人。
どんな状況でも、どんな時でも、慶應の1枚目になることを諦めないでください。
私が1年生の時、3つ上の先輩が引退する時にくれた言葉でした。
慶應ゴーリーズと言う、貴一さんを含め9人の最強集団に名を連ねるという事が、いかに重く、誇り高いことか。
この言葉で、鮮明に際立ったことを記憶しています。
最強の先輩たちに囲まれ、そんなゴーリーズに仲間入りできたことを嬉しく思ったと同時に、そこはかとなく怖くなった。
1枚目だけが価値あるものであり、1枚目にならなければ意味がない。
1年生の私は、この言葉をこう解釈しました。
解釈、という表現が正しいのか、
覚悟、という表現が正しいのか。
慶應のゴーリーになった以上、慶應のトップを全員が目指し、どんな状況にも耐え抜く使命があるという、矜持にも似た覚悟を与えられ
だからこそ、到底トップには遠い今の自分が怖かった。
この恐怖は割と凄まじい威力を放っていて、
何も知らない先輩や同期にも、セーブ率が毎回知られ、ランキングが1位から8位まで明確化される。
言ってみれば、4年間365日毎分毎秒永遠に、AKB総選挙状態です。笑
覚悟は一丁前でも、実力が伴わない恐怖に押し潰されそうで、
あの頃の私は、シュートを受けるという解決策に終始していました。
先輩たちは、全く止められないのに毎オフ私にシュートを打ってくれ、
でも心のどこかで『これ、いつかボールが見えるようになる日がくるのか?』という拭えぬ不安を見て見ぬ振りしながら
それでも自分はいつか、ゆゆこさんみたいなゴーリーになるんだ。
そう思い、笑えないほど止まらないシュートを見続け、全てに負け続けた日々を懐かしく思い出します。
ーーー
私のラクロス人生が本当の意味で始まったのは、2年生でした。
2年生。
チームのゴーリーズ8人の中で、自分だけが大事な試合に出られなかったシーズンでした。
上手いシュートを打たれていないから
FFOで誰もキャッチしてくれないから
比較対象がいなくて闘志が無くなるから
あの頃の悪い記憶は、あまり思い出せない部分も多いですが、
常に人の目が無く言い訳を探しやすい環境で、ラクロスをやっていたことは確かでした。
デベ始動当初は、周りを変えることに執着したな…。
トップチームやサブチームにあって、デベにないものばかりが目につき、不平不満を並べ、そうすることで自分の本当の課題から目を背けていた。
それが実は弱さであることを何となく勘づいてはいながら、環境のせいにすることで、慶應のトップ試合を任されるゴーリーからは程遠い自分を守っていた、という表現が正しいと思います。
しかしいつしか、そんなことをしていてもなんの意味もない事に気づきました。
自分が今置かれている場所は、必ず意味があってここにいる。
たとえ信じたくないような瞬間でも、客観的に、いるべき場所にいる。
これは、確かだと思います。
私自身はこのことを認められるまでに、2年生の春先1ヶ月半近く要しましたが、人には相応の場所を与えられる、というのはやはり確かです。
そうして、
どんなATでも、どんなDFがついていても、自分が止められるゴーリーになればいいと、ある意味達観し始めた4月頃。
目先の結果に執着しなくなったことで、変えられないものを無理やり変えようとする無駄な努力をやめ、”変えられる唯一のもの=自分”に目をむけ続けた、2年生時代でした。
振り返れば、これが「慶應の一枚目になるため」の努力の先駆けだったと思います。
次第に、Vリーグαや準リーグに出られるようになったり、次第に一枚目をリアルに捉え始めた秋先…
結局準Vファイナルのベンチに、私の名前は無く。
きょうかと、応援席で呆然と見尽くしながら涙も出なかったことを、ありありと思い出します。
「来年は、2人で絶対早慶戦に出ようね。」
あの時、失意のうちに決めた覚悟が、今から思えば自分のラクロス人生において後々欠かせないものとなっていきますが…
それでも、やっぱり情けなかった。
ゴーリー8人の中で自分だけが、ゴーリーズにも、チームにも貢献できなかった息苦しさ。
あの言葉には表現し難い焦燥感は、今でも忘れ難い辛酸を舐めた記憶です。
ーーー
3年生はというと…
リザのレベル分けが始まったり
自分はレベル3スタートだったり
脅威のセーブ率12%を記録した練試(るなさんからデータ間違ってるよって素で言われる💩)
不幸自慢にはなりたくないのでこれ以上はやめますが、
3年生の頭、また少し自分から「慶應の一枚目になる」という最終目標が遠ざかる日ももちろんありました。
焦りがなかったわけでは無かった。
でもあの時の自分を奮い立たせたのは、
他でもなく、失意のうちに交わしたあの約束。
杏香が頑張るなら、自分も。
と思わせてくれた人が、3年生になり着実に実を結んでいく姿をみて、
あの時の「2人で早慶戦に出ようね」という夢を、捨てるわけにはいかなかった。
そして、この年の早慶戦、いろいろな運も重なり、早慶戦のメンバーに入った自分と杏香。
誰かとの約束や、誰かと苦悩を乗り越えようとした過去が、これほど自分を鼓舞し、無理そうなことまで乗り越えさせる力がある。
これもまた、確かなことだと思います。
目標は、1人でも、誰かとでも、怖くても口に出し、そのことで自分のハードルを上げるというやり方もあるんだと学んだ契機でした。
本当に少しの時間しか出られなかった早慶戦。
ゆゆこさんに姿を見せられて嬉しかったと同時に、
必ずここに戻ってくる。今度は自分が「1枚目」として勝たせる。
その決意へと様相を変えた、早慶戦でした。
ーーー
そしてその1ヶ月後の2022年9月7日。
1年で1番嬉しい日になるはずが、私にとっては人生で1番の挫折を味わう、Xデーになってしまいました。
夏合宿。
雨明けの人工芝グラウンド。
最後のメニューHFD2セット目、ゴール裏のグラボ争い。
左膝を思いっきり内反しました。
立っているだけで膝が落ちる感覚。
夜中痛みで7回起きるほどの激痛。
翌朝合宿先の病院に行くと、
「前十字靭帯断裂」と言われ、
突きつけられた現実を受け入れられず、初対面の医師の前でも涙を堪えきれず。
あー、神様見てないな、と思いました。
怪我って、別に頑張っていないから罰として与えられる試練、というわけではないんです。
誰にでも、どんな時でも起こりうる。
だから、防ぐためにトレがあり、ストレッチがある。
怪我をするまで、
具体的な目標を立て、道筋を明確にし、計画を立て、1日、1メニューごとの目標を立て、あとはそこに向かって、言葉通り死ぬ気で頑張れば、必ず報われると本気で思っていた自分がいました。
だから、報われない人は、頑張っていない人だと決めつけていた。
死ぬ気でやっていないのに、よくそんな不安を口にできるな
人の目なんて気にせず、心がへし折れるほど頑張れば、そんな悩みをいつか消えて無くなるのに。
本気でそう思っていた私にとって、前十字を切ったこの出来事がなぜこれほど苦痛だったかと言えば、
何か苦悩に出会った時に、苦悩の根因から距離を置くのではなく、ひたすら数をこなし、そのことで自信をつけ、前を向いてきた自分にとって、
数をこなすという今までの方法が物理的に効かなくなり、ならば自分の苦痛はどうやったら取り除けるのか、そのことについて全くのノーアイデアだったからだと思います。
靭帯が切れているのだから、物理的にトレーニングもラクロスもできないのに、そんな如何にもこうにも休まなければいけない時にも、自分がサボっているような気になって、
誰かにこの心の内を明かすことは、弱さなんじゃないか?
今何もやっていない自分が不安を口にすることは、恥ずべきことじゃないか?みんなに失笑されるのではないか?
苦労知らずの過去の自分が、あの頃の自分の、1番の敵でした。
家族にすら心情を明かさず、部活では同期に対してですら平気だとヘラヘラ笑い、最初の2ヶ月は泣くことさえも禁じ。
人に弱さを見せることを、極端に嫌った自分がいました。
強がりな自分は、一年前に同じ怪我をしたまなみさんに倣い、
部活へ行くこと
必ず筋トレをすること
ゴールの裏に立ってシュートを見ること
毎日家で必ず壁打ちをすること
怪我の翌日からこれだけは、絶対に破らずにいようと思っていました。
でもこれは、10ヶ月後に治った自分が、もし思っていたようなラクロスをできなかった時に、言い訳の材料をゼロにしたかった。
という、自己中心的な承認欲求でしかなく。
この単なる自己承認欲求の塊の人間にとって、10ヶ月…特に、走ることもできない最初の4ヶ月は、やっぱり長過ぎました。
言葉通り、一人になると毎日涙が止まらなかった。
自分が出るはずだった試合に別のゴーリーが出て、
素直に喜べず、それでも人にそれを悟られるのは悔しくて、口では『ないキー!!!!』と言いながら、悔し涙で試合をろくに見られなかった準リーグ関東ファイナル。
自分の代わりに別のゴーリーが出て、あまりの想いに試合を見られず、ひたすらパソコンに向かって実況することで見ないでいた、大井での大雨のリーグ戦。1人だけ部の一員じゃないような疎外感を勝手に感じて、1人で運転しながら泣いたことも、そういえば、ありました。
手術後退院して、自宅に帰った日。
自力で家の階段すらも降りられず、弟におぶってもらって降りた時、
もう2度とフィールドには立てないのではないかと本気で思って、一人シャワーの音で聞こえないように風呂で泣いたこともあったり。
ふぃーふぃーって声をかけてくれて、最近どう?と優しく聞いてくれた特別仲のいい同期や先輩にも、
あの頃は、『大丈夫!来年の早慶戦間に合わせるから!』と強がってしまった。
それは、大久保さんやチームメイトの前で泣いたりしたら、もう自分自身が諦めているかのように映ってしまうのではないかと、それが怖かったから。私は諦めてない、早慶戦に間に合うよ。
無理そうな希望的観測だったとしても、そう思わせたかった。
でももちろん、私の心の1番柔らかいところでは、泣いていました。
あの時、私は人に、あまり何も言えていなかった。
言えばよかった。そのことは、やはり後悔しています。
泣くことは悪いことじゃないし、誰かに自分の悩みを吐露し、自分を再生させることもまた、自己管理の一環。
私はそう思います。
そんな、1番心を許していた部活の同期にも笑って接していた偏屈な私は、なぜなんとか持ち堪えたんだろうか。
怪我が完治した今、冷静に考えてみると。
自分の精神力の強さだけで乗り越えられるような、私はそこまで精神的に熟達した人間ではない。
その答えは、やっぱり冒頭のあの言葉にあったと思うのです。
慶應のゴーリーズは最強です。
その中でも、慶應を背負って立てる一枚目は、ただ1人。
どんな状況でも、どんな時でも、慶應の1枚目になることを諦めないでください。
諦めてしまえば、ただ10ヶ月のリハビリ期間が過ぎてなくなることを待っていればよかったのかもしれない。
でも、やっぱりそれじゃダメなんですね。
私はこれでも慶應のゴーリーの端くれだから、1枚目になるという始めながらにして義務付けられた宿命からは逃げられない。
倒れそうな時、自分を何とか立ち上がらせたのは、やっぱり4年前のあの言葉、あの覚悟でした。
振り返れば、あの時先輩がくれた言葉は、きっとこの時のために送ってくれたのだと思います。
ーーー
4年生
2023年4月10日。
私は、あれから7ヶ月ぶりにグラウンドに立ち、試合をしました。
もちろん、全くシュートが見えなくなっていること、コーチングがわからなくなっていること、自信がないこと。
7ヶ月というブランクを痛いほど感じた15分×2クオーターでしたが、
心底、ホッとしました。
楽しかった。
そして、復帰したからには、向かう先はただ一つ。
「慶應の一枚目になる。」
それ以外のことを考えている時間も余裕もなかった。
それからは、ただがむしゃらに、一層純粋に、ひたむきに。
また毎日総選挙状態の日々への回帰となりましたが、笑
自分がどんなに下手で、チームから必要とされないほどのダメゴーリーでも、そんなことを気にする時間をもったいなく感じ、ただ向き合い続けました。
おそらくそれは、
リザの後輩たちが人懐っこく話しかけてくれ、デベの子たちが日々ひたむきに向き合い続ける姿に感化され。
周りの人たちに恵まれたことも確かです。
そしてラストイヤーついに、
ゆりと4年間願い続けた2人でのリーグ戦出場が叶う日が来ました。
「リーグvs明治 間に合わせる」
準リーグ予選のベンチ落ちを経験した日に、自分が立てた目標でした。
慶應を背負ってやるラクロスの重みをひしひしと感じ、毎日練習後も高架下でシュー練をし。
一方で、自分が今年のリーグ戦で機能できず、最後の最後に、2人で一緒に矢面に立ち、不安とプレッシャーと結果を、全て二分して受け入れるべき試合を、ゆり一人に背負わせてしまったこと。
間に合わなかった。
ゆりを安心させられる相方には、まだ遠かった。
最強の2人になりたかった。
悔しさが大半の、夢半ばの道でした。
ーーー
長々私の4年間を述懐しましたが、
端的にいえば私は、
慶應の一枚目のゴーリーにはなれなかった。
これが、私のラクロス人生の結論です。
4年間涙を堪え、時に堪えきれず涙してしまうほどの溢れそうな想いを抱えて、行動してもなお、達成できなかった。
だからこそこの身から言えることをいうならば、
慶應のゴーリーズは最強です。
その中でも、慶應を背負って立てる一枚目は、ただ1人。
どんな状況でも、どんな時でも、慶應の1枚目になることを諦めないでください。
あの日先輩がくれたこの言葉の意味は、
「1枚目になれ」
なんていう、単純で低俗な言葉では無かったということ。
一年生の時に私がした解釈は、少し単細胞過ぎました。
4年間を振り返り、
「一枚目」になるために、
もがき、足掻き、挫折と対峙しても逃げず、それすらも契機に変えてきたこと
いろいろ書きましたが、
これは、慶應ゴーリーズという最強集団8人の中の1人である、#5が「1枚目を目指す」という宿命のためにしてきた覚悟の物語に過ぎません。
ゆりにだって、ことねにだって、わだにだって、あんなにだって、れんにだって、それぞれが毎日溢れそうな思いを抱えて、何とかその足で踏ん張ってきた覚悟の時があり、
あみちゃんや、ちほも、これから4年間をかけて、自分なりの覚悟を紡いでいきます。
「1枚目になる」という宿命を、慶應ゴーリーズ全員が課され、それぞれがそれぞれの形で覚悟を紡ぐのは、
「1枚目」になるためだけではないのです。
宿命を常に念頭に置き、強く切望し、諦めず信じ抜き、人知れず涙を堪え、言葉を超える数の練習をすること。
この時間を過ごしたゴーリーの集まりだから、慶應のゴーリーズは最強であると呼ばれるのだと思います。
1枚目になれるのは、8人いても、1人だけ。
8人全員が願った先にある、たった1枠を、全員が純粋な気持ちで追いかけ続けるから、慶應のゴールは鉄壁なんだと思います。
時には、応援できないこともあるかもしれない。
自分なら止められるのに、と思う日が来るかもしれない。
目先のセーブ率や、ベンチ入り、スタメン争いで心をすり減らす時間も、あるかもしれない。
それでも、お互いの痛みや苦しみを理解できるのもまた、お互いだけ。
なぜか?
それは、同じ宿命を持つ、唯一の同志だから。
お互いをよく理解し、観察し、覚悟を持って宿命に挑み続ける同志へのリスペクトを忘れず。
最強集団にふさわしい、日本で一番、いや、世界で一番かっこいい8人組を継承し続けてください。
あと少し、私もみんなに恥じぬよう覚悟を決め、宿命を胸に、邁進していきます。
鬼の長さとなってしまいました。
最後まで読んでくださった方、ありがとうございます。
そして次は、
次は、慶應が誇るDRAWER#38みねです👉
境遇の異なる人のことを心底理解しようとし、時に自分を犠牲にしても誰かに寄り添い続けられるところが、みねが愛される一番の所以だと思っています。
去年の大阪遠征の時には、怪我人である私のスーツケースを無言で担いで、嫌な顔もせず毎回階段を2往復してくれました。怪我で傷心中の私の心に寄り添ってくれたみねを、私は今も色濃く記憶しています。
強がりで、人一倍忍耐強く、妥協を絶対に許さない人。
また車の中ででも、不安や悩み解決のドライブをしましょう。
みねの運転は私と違ってインディージョーンズなので、首都高でのお話会をお望みなら、私が運転するよ、話に集中するためにね。笑